守口御坊の歴史

 守口御坊・盛泉寺は、本尊・阿弥陀如来、宗祖・親鸞聖人、開祖は東本願寺が烏丸に開かれた1606年慶長十一年初代の教如上人で、教如上人から親鸞聖人の御分身として慶長十六年守口御坊に別院のお墨付き絹本著色親鸞聖人画像「真向きの御影」をいただき東本願寺の別院として近在一帯に末寺を持っていた。

 徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉を相手に臆せず戦う本願寺勢力を目の当たりにして此の勢力を味方に付けたいが強すぎると判断、勢力を削ぐ得策として東西を分離して統制を加え支配した。元和元年1615年火災で焼失、本多家一建立により本来の御坊となり、現在本多家15代である。

【史蹟】

 慶応三年徳川幕府大政奉還、参与大久保利通は人心一新のため、大阪遷都の急務を進言、副総裁岩倉具視は公卿が異議を唱えるは必然と考え表向きは大阪親政の行幸として密かに遷都の意思を持った行幸であり通常の行幸でなく宮中の中に有って元来動かす事がない賢所・三種の神器八咫鏡を伴って1868年慶応四年三月二十二日(九月明治と改元)本堂前に奉安され、天皇が居て賢所が有れば其処が都と言う暗黙の策とした。

 本堂前には日本銀行創立・首相二回、松方正義書の『内侍所之跡』の石碑が残る。新政府の西郷隆盛と幕府の勝海舟の会談で総攻撃中止、江戸城の無血開城の実現によって四月十一日大阪遷都論は一転して「日本近代郵便の父」前島密の提案する江戸遷都となった。